クロユリさんと二月   こばやしぺれこ


 アイロンをかけているクロユリさんの手が止まった。

 クロユリさんは猫又だ。黒くて艶のある毛並みは手触りが良く、二股の尻尾はお団子だ。触るとすこし嫌そうな顔をする。
 クロユリさんは猫又で、私の家政婦だ。月三万円で雇っている。今のように、家事をする時は毛が落ちないように、と割烹着を着て手袋を付けている。私は別に毛の一本や二本や十本や二十本気にしないのだけれど、「クロユリさんが」気になるらしい。

 クロユリさんは、私が見るともなくつけっぱなしにしていたテレビに目を留めている。見もしないテレビをつけっぱなしにするのは、私の良くない癖だ。クロユリさんにもよく小言を貰う。でも部屋が静かだと、なんでも良いから音が欲しくなってしまうのだ。だから、特に見たいものが無くてもテレビをつけてしまう。
 言い訳をすると、つい十分ほど前までは確かに見ていたのだ。特に興味もない、映画の紹介だかをしているテレビ番組だった。そこにクロユリさんがアイロン台を持ってきて、私のシャツにアイロンをかけ始めた。だから私は、テレビよりももっと楽しいものを見ることにしたのだ。細々と働くクロユリさんを。
 私はアイロンを持ったまま静止しているクロユリさんから、クロユリさんの視線の先に目を移す。

 緑色の原っぱだ。遠くに薄く雪を被った山がある。原っぱの真ん中には、木の板で作られた細い道が通されている。レポーターだろうか、帽子をかぶってオレンジの上着を着た女性が歩いている。
 こちら側を見た女性が「おぜのすばらしいしぜん」と口にする。
 なるほどここは尾瀬なのか、と私は理解する。では私が原っぱだと思ったこの緑色の葉群れは、尾瀬の沼なのだろう。通りでそちらこちらに大きな水たまりがあるわけだ。私はひとり頷く。
 ソファに寝そべっている私からは、クロユリさんの横顔しか見えない。珍しい宝石のような瞳は熱心に女性レポーターを、その背景に広がる尾瀬を見ている。
 いつ頃撮影されたものなのだろうか。切り替わった画面には、空の青を写す水面と、水辺にひっそりと佇む白い花が映されていた。白い花弁はなめらかで、遠くにそびえ立つ山の雪を思わせる。花芯の色は淡く、深夜にふと見上げた夜空の三日月のようだ。
 クロユリさんの髭が揺れている。毛先がちらちらとぬるい日差しを跳ね返して、私は尾瀬よりもそちらに見とれてしまう。
「水芭蕉だね」
「こういう花だったんですね」
 画面はすでに切り替わり、尾瀬の沼地は一面の雪に覆われている。それでもまだあの白い花を探しているのだろうか。クロユリさんの視線は画面に注がれたままだ。
「好きなの?」
「歌にあったんです」
「歌?」
「夏がくれば思い出す、って」
 クロユリさんは歌うでもなく、ただ歌詞を諳んじた。
 その歌は私も知っている。小学生の時、授業で歌った覚えがあった。歌のすべてを覚えてはいないが、歌詞に水芭蕉が入っていたような気がする。

 クロユリさんは、この歌をどこで聞いたのだろうか。誰に、聞かされたのだろうか。

「尾瀬、いこっか」
「え」クロユリさんが振り向いた。
 きょとん、と見開かれた目は金色で、私がいつも見ているクロユリさんの瞳だ。昼間だから瞳孔は細い。
「水芭蕉が咲いてる時にさ、行こうよ。ほんもの見に」
「いえ、別に見たいわけではないです」
「私は見たい」
 はあ、とクロユリさんはため息と返事の中間のような声を出した。ぱた、と薄い耳が揺れる。
「わたしも行かないとダメですか」
「うんダメ。ひとりで行ってもつまんない」
 私は早速スマートフォンで尾瀬について調べ始める。水芭蕉の時期によっては、有給の申請も必要かもしれない。
「山の上だから、クロユリさん用にトレッキングシューズとか買わないとね」
「いいですよ、わたしは裸足でも」
「ダメ」
 無駄遣いして、と呆れたようにクロユリさんが呟いた。
 しゅ、とアイロン台の上をアイロンが滑る音が再開される。私はスマートフォンを見ながら、その音を聞いている。テンポ良く熱される、私のシャツを思う。

 クロユリさんと暮らし始めて、まだ一年と少し。
 来年またクロユリさんが同じテレビを見た時に、思い出すのは私との旅行のことになればいい。
 今日みたいな「懐かしい」と「寂しい」の中間地点にいるみたいな顔をしなければいい。
 そうやって少しずつ、クロユリさんは寂しい思い出を忘れて、私との楽しい思い出ばかりを思い出すようになればいい。

 私は旅行会社のホームページを開いた。





こばやしぺれこ
作家になりたいインコ好き。好きなジャンルはSF(すこしふしぎ)

写真を見た時に真っ先に頭に浮かんだのが水芭蕉でした。
水芭蕉を思ってから三秒後には写真のどこにも水芭蕉が写っていないことに気付きましたが、どうしてもあの写真の向こう側、どこかに水芭蕉がある気がしてなりませんでした。
写真に写っていないものを題材にするのもどうかと思いましたが、これもまた見たものの反応として受け入れて貰えれば…と思い書きました。
一応尾瀬のある県に住んではいますが、行ったことはありません。
出不精が極まっているので、死ぬ前に行けたらいいかなぁとか思ってます。